「客体」と「主体」が一致するとき:『旅のおわり世界のはじまり』

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カンヌ国際映画祭で受賞を果たした「岸辺の旅」など国内外で高い評価を受ける黒沢清監督が、「散歩する侵略者」「Seventh Code」でもタッグを組んだ前田敦子を主演に迎え、シルクロードを舞台に、日本とウズベキスタンの合作で製作したロードムービー。取材のためにウズベキスタンを訪れたテレビ番組のレポーターが、番組クルーとともにシルクロードを旅する中で成長していく姿を、現地でのオールロケで描いた。いつか舞台で歌を歌うことという夢を胸に秘めたテレビ番組レポーターの葉子は、巨大な湖に潜む幻の怪魚を探すという番組制作のため、かつてシルクロードの中心として栄えた地を訪れる。早速、番組収録を始めた葉子たちだったが、思うようにいかない異国の地でのロケに、番組クルーたちもいらだちを募らせていく。そんなある日、撮影が終わり、ひとり町に出た葉子は、かすかな歌声に導かれ、美しい装飾の施された劇場に迷い込むが……。葉子と行動をともにする番組クルーたちに、加瀬亮染谷将太柄本時生と実力派が集結。
2019年製作/120分/G/日本・ウズベキスタンカタール合作
配給:東京テアトル

出典元:旅のおわり世界のはじまり : 作品情報 - 映画.com

 


前田敦子の涙が美しい…黒沢清監督『旅のおわり世界のはじまり』予告編

 黒沢清は、「こちら」と「あちら」が強烈に結びついているにもかかわらず、それでも両者が決して同一にはなり得ない、というジレンマを描いてきた作家のように思う。作中では、「こちら」と「あちら」は強い関係性を持つが、海や川のような水のモチーフ、またはカーテンや窓が両者を断絶し、その間のコミュニケーションの不可能性が強調される。さらに、この構造は、「こちら」としての観客と、「あちら」としての映画テクストにメタ的に敷衍できる。観客は彼の映画に強く惹きつけられるものの、映画世界との非連続性はいつまでも消えることがない。

 そして、本作『旅のおわり世界のはじまり』は、二重性を持つ「こちら」と「あちら」の関係性を再び深く考察した傑作であるように思う。

 まずオープニングから見事だ。「こちら」に位置する主人公の葉子(前田敦子)と、「あちら」すなわち窓の外にいるウズベク人がまず鮮烈に対置される。最初の台詞は「あちら」のウズベク人が話すウズベク語で、それに字幕は付されず、葉子にも、たいていの観客にも、その意味は理解できない。さらに、意図的に見切れさせた構図には、「こちら」に位置する観客の「覗き」の感覚を喚起し、「あちら」への安易な感情移入を拒むようなところがある。従来の黒沢映画が描いてきた「こちら」と「あちら」の決定的な断絶を重層的に、的確に示してみせたファーストカットである。

 葉子はバラエティ番組のリポーターを務めている。『世界の果てまでイッテQ!』と『世界ふしぎ発見!』を足し合わせて2で割ったような番組といえば分かりやすいかもしれない。彼女は”幻の怪魚”を探しにウズベキスタンの湖にやってくる。ディレクターの吉岡(染谷将太)から、何がいるかも分からない茶色く濁った湖に下半身までつかるよう指示され、彼女はその通りにする。彼女がおそらく、これまでもそのような過酷なロケを経てきたことは容易に想像できる。

 劇中のカメラマン岩尾(加瀬亮)が撮影を始めると、映画のスクリーンはテレビカメラのモニターと同一化する。葉子は広大な湖(「あちら」と「こちら」を隔てる水のモチーフのひとつ)のただなかで、明るい笑顔と明るい声でリポートを始める。この瞬間、葉子は、湖の向こうにいる「あちら」になる。いや、むしろ本作では、「あちら」を「客体」としたほうが的確かもしれない。興味深いのは、彼女が、観客にとっての映画テクストとしての「客体」になるばかりではなく、劇中のディレクター、カメラマン、ADにとって、もっと言えば、のちのテレビの前の視聴者にとっても「客体」になることだ。言うなれば、彼女は、周囲の無数の「主体」から断絶した、純然たる「客体」としての自己を世界でただ一人、背負うのである。

 ほかの撮影のシーンに関しても、彼女は徹底的に、暴力的に、「客体」として描かれる。根源的に、「タレント」という職業は「客体」でいることを要求され続けるものだから。その意味で、葉子役に前田敦子を起用したのは完璧だったと思う。前田敦子こそ、かつて日本で最も有名な「客体」だったのだ。

 葉子の「客体」として生きることの辛さが、その「客体」性に加担している観客にさえ痛感させられるのが、彼女が現地の絶叫アトラクションをレポートするシーンである。おそらく、本作を観た誰もがこのシーンのある種の残酷さには思わず目を背けたくなったのではないか。劇中の、ディレクター、カメラマン、AD、現地ガイド、地元住民、のちに想定される番組視聴者、そして私も含めた映画の観客のすべてが、よってたかって彼女を「客体」として徹底的に追い込む。彼女はそれが自分が選んだ仕事である以上、それらの要求をみな受け入れ、吐くまで「客体」としての自己を全うする。

 そんなハードな撮影の日々にあって、葉子の心を保ってくれるのは、東京湾の消防士である恋人とのスマホでのやりとりだ。そこでは、自身の「客体」性は薄まり、「主体」性を持つことを思い出させてくれる。葉子の「世界」はスマホの中にあり、彼女に外の美しい「世界」は目に入らない。

 面白いのは、「客体」として生きることの辛さをおそらく骨身に染みて感じているはずの葉子が、歌手になる夢を持っていることである。歌手だってタレント同様、「客体」として生きることを強く要求される仕事である。「客体」として生きることは辛いけれど、なお「客体」として生きる夢がある。葉子が持つ、このアンビバレントで揺れ動く心情は、のちの場面で丁寧に描かれることになる。

 その場面とは、劇場のシーンだ。葉子がウズベキスタンの町中を歩いていると、噴水の向こうに巨大な劇場が現れる。(劇場と葉子の間に水のモチーフを介したのは、劇場という存在自体が、「客体」を提示する大きな装置であることを暗示しているのかもしれない。)葉子が劇場の中に入っていくと、そこでは歌手が歌っている。葉子はその様を「主体」として見つめるうちに、白昼夢を見る。葉子は2つに分離し、ひとつは「客体」として「愛の賛歌」を歌い上げる歌手に、またひとつは、「主体」として歌手になった自分を見つめる観客になる。これは明らかに、葉子の中で、「主体」としての自分と「客体」としての自分が一致していないことを示している。


Edith Piaf - L'hymne à l'amour + Paroles

 葉子はその後、「主体」として生きることの楽しさを実感することになる。ロケに向かう車内で、ディレクターの吉岡が、葉子自身に撮影させてみてはという提案をする。承諾した葉子はカメラを手に市場へと乗り出し、自らの手で撮影を始める。撮影している葉子の姿は、これまでになかったほどに嬉しそうで、楽しそうで、そこでは自己の「客体」性は完全に消滅している。「主体」としての葉子は、自分自身の中にでもスマホの中にでもなく、外の美しい世界にひたすらに「客体」を見いだすのである。

 しかし、撮影禁止の建物にカメラを向けてしまったことから、葉子は警官に追われる身となる。追われるということは、自らの「客体」性がにわかに露呈されることだ。葉子はついに警官に見つかり、署に連行されてしまうが、これは、葉子の「主体」としての生が瞬時に挫折してしまったことを意味する。

 葉子の誤解がとけ、釈放されて間もなく、葉子は東京湾の火災のニュースを目にする。消火に当たる消防士の中に死人も多く出ているという。この瞬間、葉子はふたたび強烈に「主体」化される。同時に「客体」化されるのはもちろん消防士の恋人だ。結局、恋人は生きており、葉子に電話を掛けてくるのだが、そのとき葉子は言う。「生きた心地がしなかった」、と。そうか、「主体」としての生もやはり、それはそれでひどく辛いものなのだ。彼女は納得する。

 黒沢清の映画は、後半に突飛な展開が控えていることが多い。そして、その突飛さから日常へと帰還した登場人物たちは往々にして、何らかの成長を遂げている。本作における「突飛な展開」とは、上記の東京湾の火災だろう。そしてやはり、それを経た葉子は成長する。ラストシーンでは、葉子の成長が祝福される。

 葉子を含めた撮影クルーは、ロケのために山を登っている。そして葉子は山の頂上でヤギを見つける。このまえ自分たちの手によって自由を与えられたヤギだ、葉子はそう確信する。このとき、葉子と現地人の間の、あるいは葉子とヤギの間の、コミュニケーションの不可能性が打倒される。相手のことをすべて理解することなどできない。だが、葉子がヤギに対して感じたような「共感」の力は、言語が通じなくたって相手のことを察することなら出来るではないか。「心ここにあらず」状態だった葉子の前に世界が開けていく。

 そして、葉子は歌うのだ。ふたたび「愛の賛歌」である。だが今回は「主体」と「客体」が分離することなどない。心に迷いなどない。彼女は究極の「主体」として、そして同時に究極の「客体」として歌いあげる。「主体」としての彼女にとって「客体」とは「世界」であり、「客体」としての彼女にとって「主体」とはまた「世界」である。すなわち、彼女は「世界」を見て、同時に「世界」に見せつけるのだ。「世界」とはスマホの中のものではない。そして、映画の中だけのものでもない。われわれ観客が生きるこの現実も含めたすべての「世界」だ。葉子がカメラを通してこちらを見つめるとき、覗きに終始していた観客も「客体」となる。もはや夢に臆することはない。葉子は「世界」に「客体」視されることを拒まない。なにしろ彼女も「主体」として「世界」を見ているのだから。葉子の旅はおわる。葉子の世界がはじまる。観客は試されている。