ピクサーの「真摯さ」という狂気:『トイ・ストーリー4』

 

おもちゃの世界を舞台に描くピクサー・アニメーションの大ヒットシリーズ「トイ・ストーリー」の第4作。ウッディたちの新しい持ち主となった女の子ボニーは、幼稚園の工作で作ったフォーキーを家に持ち帰る。ボニーの今一番のお気に入りであるフォーキーを仲間たちに快く紹介するウッディだったが、フォークやモールでできたフォーキーは自分を「ゴミ」だと認識し、ゴミ箱に捨てられようとボニーのもとを逃げ出してしまう。フォーキーを連れ戻しに行ったウッディは、その帰り道に通りがかったアンティークショップで、かつての仲間であるボー・ピープのランプを発見する。一方、なかなか戻ってこないウッディとフォーキーを心配したバズたちも2人の捜索に乗り出すが……。ボー・ピープが「トイ・ストーリー2」以来19年ぶりに再登場を果たすほか、物語の鍵を握るフォーキー、ふわもふコンビのダッキー&バニー、かわいいアンティークのおもちゃギャビー・ギャビーなど新キャラクターたちも続々と登場。数々のピクサー作品でストーリーボードアーティストを担当し、「インサイド・ヘッド」では脚本にも参加したジョシュ・クーリーが長編初監督を務める。
2019年製作/100分/G/アメリカ/
原題:Toy Story 4
配給:ディズニー

出典元:トイ・ストーリー4 : 作品情報 - 映画.com


「トイ・ストーリー4」日本版予告

 かつて、ルネ・デカルトという哲学者がいた。彼は、その著作、『方法序説』のなかで、絶対的な「真実」を問う実験を行った。彼にとってはこの世界も、我々の精神も、論理も感覚も、みな一様に疑わざるをえないものであった。そうして思索を深めるうち、彼は超越的な解に至る。「我思う故に我あり」。すなわち、絶対的な真実とは何か、と「思索する私」は何者かでなければならず、その存在こそが絶対的な真実である、と結論づけたのだ。

 なぜ、デカルトのことなど書くのか。それは、『トイ・ストーリー4』はウッディという思索者によるデカルト的探求の物語であり、ウッディの「おもちゃ」としての「実存」をめぐる問いの追求の物語である、と私は考えるからである。

 95年公開の第1作目『トイ・ストーリー』において、主人公のウッディは、自身が「おもちゃ」であることを自覚せずにいるバズに向かって「君はおもちゃなんだよ!(You are a toy!)」と訴える。稀代の名シーンであるが、今思えば、ウッディのエゴイスティックな「役割観」はここに端を発するといえる。ウッディにとっての「役割観」とはすなわち、「おもちゃはおもちゃらしく持ち主に必要とされなければならない」というものだ。この「役割観」はシリーズ3作目『トイ・ストーリー3』に至るまで、ウッディなりの「正義」として存在し続ける。『トイ・ストーリー3』の達成とは、ウッディの(少し無理がある)「役割観」を、絶対視はせずともしっかり観客に同意させたこと、そして、アンディからボニーへ、という世代交代を描くことで「役割」を見事に保ったことだ。完結編としては至上の出来だった。


Toy story you are a toy

 だが、ピクサーはシリーズを終わらせなかった。蛇足的な宿命を背負って『トイ・ストーリー4』は誕生した。そこにはピクサーの探求への異様な執念が見える。

 『トイ・ストーリー4』の主眼は、ウッディの「役割観」を疑うことにあった。先述したように、ウッディの「役割観」には少し無理があった。ピクサーにはそこが気がかりだったのではないか、と思う。言ってみれば、「役割観」など自己中心的な正義でしかなかったのである。(そこに9・11以降の「正義」への問い、あるいは世界的な多様化への流れを見て取ることも出来ようが、ここではポイントを絞るために省略する。)

 本作において、「役割観」が絶対確実なものではないとウッディに思索させる契機になるのが、ふたりの「他者」、すなわち、「フォーキー」と「ボー・ピープ」である。

 まず、非常に特異なキャラクター、フォーキーについて考えよう。フォーキーにはふたつの意味で二面性がある。フォーキーは「ごみ/おもちゃ」と「もの/おもちゃ」というふたつの境界線に位置する存在なのだ。


映画『トイ・ストーリー4』ウッディがフォーキーを紹介する本編映像

 まずは、「ごみ/おもちゃ」の境界線をさまよう存在としてのフォーキーについて。こうした存在としてのフォーキーはウッディの「役割観」を真っ向から突き崩しにかかってくる。なにしろ、フォーキーはいくらボニーから「おもちゃ」として認識されようが、かつて「ごみ」であった以上は、「ごみ箱にいること」を「役割」と考えている。そうした意味で、フォーキーはシリーズの根幹をなしていたウッディの「役割観」に絶えず反抗するキャラクターだ。こうした信念を持った他者は、ウッディにとってはフラストレーションの溜まる相手である。しかし同時に、ウッディに(そして観客に)価値観の相対性を気づかせる契機にもなっている。

 そして、その延長線上に(いわば必然的に)生じてくる大問題が、フォーキーの「もの/おもちゃ」としての二面性である。「もの」、「おもちゃ」という用語が曖昧に感じられるのであれば、前者を「思考しないもの」、後者を「思考するもの」と規定してもよい。『トイ・ストーリー』シリーズの大発明とは、「おもちゃ」が思考する、という世界観を構築したことである。しかし、シリーズ4作目にいたって、フォーキーというキャラクターの存在は、これをさえ疑義の対象に入れてしまう。フォークは思考しないが、フォーキーは思考するのだ。ではそもそも、「もの」と「おもちゃ」との間に一線を画しているものは何なのか。ウッディの思索は、そんな根源的な問いに到達する。

 余談だが、フォーキーをボニーに作らせたのが他ならぬウッディである、という点は象徴的だ。ウッディは、ある日突然やってきた他者に悩まされるわけではない(それはむしろシリーズ1作目の構造である)。本作においてウッディが自身のアイデンティティを疑うことになるのは、あくまで自身の意志と選択がそのようにさせたからである。「思考するもの」という格別の地位を与えられながら、「役割観」という括弧付きの「正義」に固執し、一種の「思考停止」に陥っていたウッディは、本作にいたり、ついに自らの意志で本来の「思考」を開始した、と見ることもできる。実に10年代の映画然としていると思う。

 さて本題に戻ろう。ウッディはそれまで、根源的な問い「もの/おもちゃの境界線」とは「持ち主に必要とされること」だと決めつけていた。しかしそこに、第2の他者、ボー・ピープ(以下ボー)という奇妙な存在が登場する。ボーは本作では、持ち主のいない「迷子のおもちゃ」として登場する。これもまた、ウッディのアイデンティティの基礎となっていた「役割観」を大きく揺るがすことになる。ボーは持ち主がいなくとも「おもちゃ」たりえているのだ。それをどう考え、どう説明するのか。

 私はここで、本作に執拗に登場する哲学的用語「内なる声」が鍵になるのではなかろうか、と考える。ウッディは気づくのだ。「内なる声」が存在し、それに従いうる「私」がいる限り、「もの」でなく「おもちゃ」でいることは可能なのではないか、と(バズはこれを曲解し、自身の音声データに従うわけだが、当然そういうことではない)。つまり、自身が「もの」であるか「おもちゃ」であるかは一旦置いておくとしても、「思索する私」が存在する限りでは、自身は「おもちゃ」たりえるのではないか。そして、これはまさにデカルトの思索の帰結と似たものである。

 そして、さらに驚くべきことに、ウッディの思索はここからさらに発展を見せる。

 20世紀の哲学者ジャン・ポール・サルトルは「実存は本質に先立つ」という言葉を残している。つまりは、「人間」というものはとりあえず「存在」し、その後にその存在の「価値」や「意味」が規定される、ということだ。対して「もの」においては、「本質は実存に先立つ」。たとえば、ペーパーナイフは「紙を切る」という「価値」、「意味」を有して「存在」してくるのである。これがサルトル流の人間存在の考え方であって、「もの/人間の境界線」だということになる。


PHILOSOPHY - Sartre

 ウッディは同様の線引きを「もの/おもちゃ」間に行った。すなわち、「おもちゃ」の「実存は本質に先立つ」と。

 まとめよう。ウッディはデカルト的思索に従って「思索する私」という「実存」を発見した。そして、「おもちゃはおもちゃらしく持ち主に必要とされなければならない」という「本質が実存に先立つ」ような、「もの」に適用される価値観から離脱し、ボーが象徴するような、これから「価値」、「意味」といった「本質」を見つけとっていく「人間的な存在=おもちゃ」となることを選んだ、ということだ。「絶対神」としての「持ち主」の消滅である。その意味で、宇多丸氏の「奴隷制のアナロジー」という指摘にはハッとさせられた。

 本作のラストに「不穏さ」がただよっていたことに気づいた観客も多いだろう。私はここに、サルトルの恐ろしい言葉「我々は自由の刑に処せられている」を連想した。「自由」には「良いもの」というイメージがある。確かにその通り。しかし、同時に「自由」を享受することに伴う「責任」の重みというものは「刑罰」に等しい。ウッディの状況に即して説明すれば、「持ち主に必要とされる」という「役割」に従順でいる限りは楽なのだが、一旦、自己の「本質」を自らの手でつかみとる存在として生きることを決めたならば、「責任」に対する「不安」、「孤独」も必然的に浮かび上がってくることになるということである。「自由」に生きるボーが、『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』のフュリオサ然とした出で立ちで登場したことは象徴的だろう。


映画「マッドマックス 怒りのデス・ロード」日本版特報 「マッドマックス」30年ぶりの新作

 しかし、それでもウッディはこれから「本質」を見つけとっていくことに決めたのである。強調しておくべきは、本作はウッディのアイデンティティの「方向性」が定まる物語に過ぎないということだ。最後の最後まで、アイデンティティそのものが定まることはない。「本質」を見つけとっていくのはこれからだ。そして、それは同時に観客への大いなる問いかけでもある。「君たちはどう生きるか」という問いかけである。

 本作は、手放しに賞賛できるような作品ではないかもしれない。蛇足感はどうしても拭い去れなかった。しかし、実はそこに本作の魅力の根源があると思う。蛇足だからこその、攻めに攻めた実験的なアプローチはピクサーの新たな達成だ。問いに対してここまで真摯に追求し、それでいてエンターテインメントとしても優れた映画を作り上げるピクサーの手腕には、一種の狂気すら感じる。怪作である。


Randy Newman - You've Got a Friend in Me (From "Toy Story 4"/Audio Only)