歴史の光で絵画を照らす:高階修爾『近代絵画史 上・下』

歴史を学ぶときに大事なのは「流れ」だと、高校の教師に散々言われた。個々の事象だけを覚えたところで、役に立たないと。それはテストで点を取るための方策に過ぎなかったのかもしれない。しかし、本書を読むと絵画の歴史の「流れ」が生む恐ろしいまでの束縛に驚愕する。歴史は流れていくが、清らかな小川ではない。黒く泡立つ濁流である。

本書が扱うのは近代の絵画史だ。すなわち、ロマン主義の登場から20世紀の抽象絵画に至る、絵画が奇妙に変質を遂げた時代の歴史である。なぜここまでの変質をとげたのか、それは多くの人にとってすでに謎であるはずだ。印象派の画家たちやピカソはなぜあんな描き方をしたのだろうか。なぜデッサンを重んじた新古典主義が台頭してから、ものの150年の間に、モンドリアンは原色のみを用いて幾何学的図形を描くに至ったのであろうか。なぜ「何を描いているのかよく分からない」絵が名作として尊ばれているのだろうか。

本書はそれらの謎を平易な文章でものの見事に解決してみせる。カギはただひとつ。「歴史の流れ」だ。そもそも美術史の流れとは「破壊と創造」の絶え間ないリピートである。ヘーゲルに倣って言えば、テーゼは必ずアンチテーゼに取って代わられる。そしてアウフヘーベン(これは必須。ほとんどの革新的画家は過去に学んでいる。)を経た後、それはきっとテーゼとなる。そしてまた思いもよらぬアンチテーゼが登場して・・・。この歴史観の面白いところは、異端が正統となることであって、さらに先鋭化した異端が登場することである。すなわち、正統は次第に奇妙に変質してゆかざるを得ない。すべての正統はもともと異端だったのだから。

美術史に限った話ではない。この世界全体はそのようにして動いてきたとも言える。ただ、近代絵画史において、「変質」がもっとも奇妙な形で現れたのは、その担い手が比較的小さな集団であって、絵画の売上げを考えない限りでは「社会」に則する必要などなかったからである。世界全体の歴史は、それ自体が「社会」の歴史である。大量の人間の生活がかかっている以上、かつての異端は大幅な修正を余儀なくされる。結局のところ、本質的に古代ギリシアから政治体制に大幅な変質は起きていない。しかし絵画の歴史に限ってみれば、異端が自らの表現を修正することは比較的少ない。または、修正したとして、修正前の世界を驚かせた作品の価値を超え、新たにテーゼを設定するのは難しい。たいてい異端は異端とされた時の形質を保ったまま正統となる(思い出してほしい。印象派を説明するのにはモネの「印象・日の出」が、キュビズムを説明するのにはピカソの「アヴィニョンの娘たち」がしばしば使われるのである。)。それを覆すには、さらに過激な表現を目指さざるを得ない。その結果、ある意味必然的に「印象派ピカソはあのように描いた」のであり、「モンドリアンは原色の幾何学的図形を描いた」のであり、「何を描いているのかよく分からない」絵は登場してくるのである。いやはや、これほどまでにダイナミックで特異的な展開を見せた歴史があったろうか。

いわば、歴史が絵画の有りようを規定しているのであり、歴史の流れが絵画の有りようを変えているのである。当時の人々はその歴史の流れを生きていたのであるから、絵画に対してある種「正しい」反応ができたのであろう。それが肯定感情でも否定感情でもだ。しかし、それは我々にはもはや無理な相談である。できることと言えば、近代絵画史を時系列順にたどり、ある時代においてある絵画が登場してきたということ自体を考察することである。そうして、我々も極力「正しい」反応に近づけるよう努力するのである。例えば、カンディンスキーの絵の凄みは歴史を紐解くことではじめて深く分かるようになる。そのカンディンスキーの絵の有りようを大きく規定しているのは、絵画に重くのしかかる「歴史の流れ」なのだから。

歴史の概説書というものは往々にして退屈である。しかし本書は、近代絵画の歴史自体の面白さと、著者の簡潔でわかりやすい文章が溶け合い、我々が西洋美術に対して漠然とながら抱いていた謎を時系列に沿って解き明かしていく。「教養として」という言葉は軽薄な自己啓発本の類いを思い起こさせ、あまり好ましくないような気もするが、いやしかし、これは我々に近代西洋絵画を規定するものを「教え養う」名著である。