コロナウイルスのせいでお家で暇を持て余している中高生のために映画を紹介しまくることにした。

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 映画はいいもんです。最高の趣味だと思う。近所のTSUTAYAで1本100円くらいで借りられちゃうし。ちょっとお金に余裕があるのなら、Amazon Prime, Netflix, Hulu, U-NEXTみたいな配信サービスもいい。月額料金さえ支払えば、古今東西の名作が見放題。だからみんな、この期にいっぱい観てやろう。

 というのが、暇を持て余している生徒さんたちに対して、僕が言いたいこと。でも、不躾にこんなことを言ったところで、押しつけがましいと思われても仕方ないということも分かってます。下手したら、なんかのセールスみたいだし。だから、「映画はいいもんだ」と信じて疑わない人間の、もすこし個人的な実感を書いてみたいと思います。

 何を隠そう、僕もついこの間まで、中高生でした。そして今は大学生。映画を好きになってから、もう10年ちょっとになります。だから、小学生のときも、中学生のときも、高校生のときも、当然いまも、映画が大好き。これはたぶん一生涯変わらないというのが僕の見立てです。

 きっかけは『スターウォーズ』でした。これSFファンタジーの金字塔的名作で、最近新作も公開されてましたから、知っている人もいるかもしれません。でも、小学4年生だったころの僕はこの映画のことをほとんど知りませんでした。そんなとき、父に勧められて観たんです。正直ぜんぜん気乗りがしなかった。「いつの映画だよ?そんな古い映画知らないし、観たくないなあ。」って思ってたわけですが。

 でもしぶしぶ承知して、つまらなかったら寝落ちすりゃいいや、ってなくらいの気持ちで観始めたわけです。で、オープニングから脳天をブチ抜かれるような衝撃を食らったという。「なんだコレ!?面白すぎねえか?」と。結局、映画が終わるまでショック状態は続いて、その日は眠れませんでした。これ、僕のぼんやりした小学校時代の記憶の中で、ほとんど唯一明確に覚えていることなんですよ。

 そっからはもう沼にズブズブとハマっていった。するとね、不思議なことに生きる気力が湧いてくるんですよ。こんなこと言うと怪しい数珠を売りつけてるみたいで嫌なんだけど。でもね、「面白そうな映画はこんなにたくさんあるのに、死んでらんねえわ」と思ったわけです。あとは、現実で辛いことがあっても映画はいつも避難所になってくれた。学校ってだいたい嫌なことが起きるように出来てるんですよね。そんなとき、自分しか知らないようなマイナーな作品を観て、「これは自分だけの世界だ」と錯覚できたんです。というかこれは今もやってるか。

 あとは、世界を知れるというのもある。僕は映画を観ていなかったら、例えば、レバノンという遠い中東の国で起きた紛争に思いを馳せることなんておそらくなかっただろうと思います。これは一つの例に過ぎないですが。もっと単純なところで言えば、白黒映像の中で動いている人たちが生きていると実感することすらなかったんじゃないかと。

 とまあ、ここまでで何となく映画の良さが伝わっていていてくれたら嬉しいなと思うのですけど、映画の良さに関して当然忘れちゃいけないのは、やっぱり純粋に「めちゃくちゃ面白い」ってとこだと思います。例えば、テーマパークで恐竜が暴走して襲いかかってきたり、雪に閉ざされたホテルで狂った父親と命がけの鬼ごっこしたり、おもちゃが喋りだしたり、壮大なテーマ曲とともに殺人兵器が登場したり。なんだその発想?!っていうね。そんなん面白いに決まってるだろうという。

 そして、これは僕個人の意見だけれど、映画の良さには「面白さ」ともう一つ大きな柱があって、これは「芸術性」ではないかと思います。こちらは「面白さ」に対してちょっと難解かもしれません。「芸術性」というと敷居が高そうに感じられるなら、映画の中にふと訪れる「映え」感覚というと分かりやすいかも。僕個人としては、いちばん上に挙げた、1958年の映画『めまい』の何気ないカットには「映え」感を覚えたりします。まあとにかく、こっちの側面も楽しめるようになると、あらゆる映画が数倍も魅力的になると思います。が、こんなことは後々分かってくればいいので、気にしすぎないのが大事。

 どうでしょうか。ここまで映画の良さに関する僕の実感を書いてきましたが、映画の良さってこんなもんじゃないんです。なんたって、一つの作品の中に当然もっともっとたくさん要素が詰まっていて、しかも何百万本も作品があるんですから。だったら、他人よりは映画を観ているはずの僕が、コロナウイルスの影響で暇を持て余している生徒のみなさんに、映画をひとつひとつ紹介したらどうかと思ったわけです。そうして、ガイドラインをつくってみようと。

 ガイドラインを示す上で重要なのはルールです。だから、僕もルールを決めようと思います。

  1.  主な対象は、中学生~高校生。休校で暇を持て余している生徒さんたち。
  2.  紹介しまくる期間は、このコロナウイルスの自粛ムードが続く限り。
  3.  紹介する映画は古今東西の名作のうち、比較的観やすい作品に限る。

これでどうでしょう。何か不足があれば付け加えたり修正したりするつもりです。

 コロナウイルスの影響で逼迫した社会状況にある今こそ、誇張でなく、僕は文化・芸術が多くの人命を救うと信じています。辛いときに僕はいつだって映画に救われてきたんだから、それを社会に還元したいというのが僕の願いです。そして、だからこそ、ほんとうに、誰かひとりでも、僕の紹介する映画を参考にしてくれる方がいてくれたら幸いです。

 

※ちなみに、僕の映画好きとしての素性を明かさないことには信用ならないとも思うので、個人的な映画オールタイムベスト15を付記しておきます。基本的に変な映画が好物です。

  1. 『2001年宇宙の旅』(1968)スタンリー・キューブリック
  2. 戦争のはらわた(1977)サム・ペキンパー
  3. ファントム・オブ・パラダイス(1974)ブライアン・デ・パルマ
  4. 『野いちご』(1957)イングマール・ベルイマン
  5. 『ザ・バニシング-消失-』(1988)ジョルジュ・シュルイツァー
  6. 『鏡』(1975)アンドレイ・タルコフスキー
  7. ナッシュヴィル(1975)ロバート・アルトマン
  8. 『遊星からの物体X』(1982)ジョン・カーペンター
  9. その男、凶暴につき(1989)北野武
  10. 『チャイナタウン』(1974)ロマン・ポランスキー
  11. ブギーナイツ(1997)ポール・トーマス・アンダーソン
  12. 『天国と地獄』(1963)黒澤明
  13. 未知との遭遇(1977)スティーヴン・スピルバーグ
  14. 悪魔のいけにえ(1974)トビー・フーパー
  15. 『回路』(2001)黒沢清

Soft Machine -『Third』を聴いてみた

 そもそも、Soft Machineって名前だけは知っていたけど、しっかり聴いたことのないバンドのひとつだ。ブライアン・イーノへの影響が云々ということを耳にしたので、今回は名盤と名高い『Third』を聴いてみる。ジャケットは質素すぎて何の情報も与えてくれない。なんとなく王道のロック・サウンドをイメージしていますけれど、実際はどうなのでしょう。

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 全然王道ロックじゃないやんけ、コレ!びっくりしたわ。そもそもコレ、ロックですらなくないか?どちらかと言えば、ジャズに近い。全体に鬱屈した緊張感が立ちこめている感じは、完全にジャズ。でも、ロックの心地よさはしっかりあるな。荒々しく突き抜けていく感じ。ロックの中でもプログレに近いのか。でも、プログレほどの「構築」感はない。どちらかというと「脱構築」的なサウンド(?)というのか、完成品を崩していくベクトルがあるような気がする。一筋縄ではいかない作品のようですな。

 1曲目は「Facelift」。早速20分近い大曲。不穏に始まり、変化を続けながらウネウネと進行する変態サウンド。「変化」が楽しいってのは、やはりプログレ聴いてる感じと似てる。でもさっきも言ったけど、構築感が薄いんだよな。混沌の一部をのぞき見している感じ。2曲目は「Slightly All the Time」。またまた長い曲。これが結構王道のジャズ・サウンド。しかし、やはり見え隠れするロック的な抜けの良さ。ジャズの鬱屈感をロックがガス抜きしている感じかね。フュージョンともまた違う凄みがあります。3曲目は「Moon In June」。ボーカルがつきましたね。3曲目にして一番聴きやすい曲かもしれない。相変わらず長いけど。にしてもこの浮遊感は凄いなあ。見知らぬ工業都市の街あかりを夜空からじっと見下ろすイメージ。ここ最近の音楽シーンでも、サイケ、ドリームポップ周辺はこの音を参考にしてるんじゃないかしら。次は「Out-Bloody-Rageous」。アルバムの最後を飾る4曲目です。イントロから聴き手を混沌にぶち込む。これが長く長く続く。そして突然の主題提示。ゾクゾクします。混沌と秩序の対立。

 最初こそびっくりしたが、最後まで聴いてみれば、なんとまあ素晴らしいアルバムだろう。構築感と脱構築感。ジャズとロック。混沌と秩序。緊張と弛緩。とにかく均整がとれている。イーノへの影響ってのも頷けますな。間違いなく超弩級の名盤。何度か繰り返して、耳に馴染んでくる頃にはもっと好きになっていそうなアルバムでもある。

映像の、映像による、映像のための賛歌:『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

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クエンティン・タランティーノの9作目となる長編監督作。レオナルド・ディカプリオブラッド・ピットという2大スターを初共演させ、落ち目の俳優とそのスタントマンの2人の友情と絆を軸に、1969年ハリウッド黄金時代の光と闇を描いた。テレビ俳優として人気のピークを過ぎ、映画スターへの転身を目指すリック・ダルトンと、リックを支える付き人でスタントマンのクリス・ブース。目まぐるしく変化するエンタテインメント業界で生き抜くことに神経をすり減らすリックと、対照的にいつも自分らしさを失わないクリフだったが、2人は固い友情で結ばれていた。そんなある日、リックの暮らす家の隣に、時代の寵児ロマン・ポランスキー監督と、その妻で新進女優のシャロン・テートが引っ越してくる。今まさに光り輝いているポランスキー夫妻を目の当たりにしたリックは、自分も俳優として再び輝くため、イタリアでマカロニ・ウエスタン映画に出演することを決意する。やがて1969年8月9日、彼らの人生を巻き込み映画史を塗り替える事件が発生する。
2019年製作/161分/PG12/アメリ
原題:Once Upon a Time in Hollywood
配給:ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

 出典元:ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド : 作品情報 - 映画.com

 


Roy Head And The Traits - Treat Her Right (Once Upon A Time In Hollywood Soundtrack)

 映像はときに奇跡を起こす。リアリティやストーリーといった狭苦しい制約を脱却し、映像それ自体が語りはじめ、歌いだす。そしてまさに、それこそが映像を旨とするメディアとしての映画本来の愉しみなのだ。本作はそういった、映像と、そして映画の力を信じて疑わなかったひとりの男、クエンティン・タランティーノが、かつてないほどの奇跡を起こしてみせた大傑作である。

 舞台は1969年のハリウッド。1969年と言えば、ニクソンが大統領に就任し、ベトナム戦争が激化、人類がはじめて月に降り立ち、ヒッピー・ムーヴメントの中でロック・ミュージックが輝きをはなっていた最後の年だ。映画史的な視点では、ニューシネマの風に吹かれて、ワイルド・バンチが倒れ、馬がハーレーに変わり、真夜中のカーボーイがウエスタン・ハットを捨てた年である。黄金期の終わり。まさに激動の時代。そして、不穏な気配と共に破局が歩み寄ってきた時代・・・。


Trip to Los Angeles & Universal Studios June 1969

 本作の主人公は、そんな「時代の空気」である。もっと言えば、「何かが大きく変わっていく時代の空気」ということになるのかもしれない。(リックは西部劇終焉の年を生きる西部劇俳優として、時代の変わり目を象徴するようなキャラクターだ。)その意味では、「Good Bye 70's... Hello 80's!」と宣言し、ひとりの男の自殺で80年代の幕を開けて見せた1997年の大傑作『ブギーナイツ』とも反響しているように思える。いずれの作品も、舞台となる時代こそ違えど、ディケイドの狭間の奇妙な空気感を閉じ込めている。


Boogie Nights - Do Your Thing

 主人公が「ある個人」でない、どころか人間ですらない以上、ドラマ性は一気に希薄化せざるを得ない。そして、本作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』はやはり、全体としてある一貫したストーリーを構築することはなく、ドラマの起伏も少ない。単に、シーンが点在しているだけのような印象すらある。これは観る人によってはマイナス・ポイントになりかねない。

 しかし、私は、これは本作の達成であると言いたい。タランティーノは映像の力を信じ切ったのだ。信じて信じてやまなかったのだ。だからこそ、映像があまりにも魅力的ならば、ストーリーが後景に退いたとて、観客の集中力は161分の長尺に耐え得るなどという狂気じみた映画作りが出来たのだろう。事実、完成した作品には飽きる隙などない。すべてのカット、すべてのシーンが69年当時の香りを発散し、観客はただただそれに酔いしれることになる。

 ただ、本作はストーリーを放棄したわけではない。本作を鑑賞するとき、史実としての「シャロン・テート惨殺事件」が強烈なストーリー性を持って我々観客に意識されている。そもそも、歴史historyと物語storyとはラテン語のhistoría(歴史、物語)を語源とする姉妹語だ。マンソン・ファミリーによる「シャロン・テート惨殺事件」はいわば本作におけるhistoríaとして映画全体を覆う核となり、作品の収束点として、タイム・サスペンス的に観客の緊張感を維持する。(その意味で、確実にこの事件を予備知識として持っている必要がある。)


California Dreamin' | Once Upon a Time in Hollywood OST

 そして、「史実」という絶対的なストーリーの力は、幸福な映像に有無を言わさず侵食してくる。特に、ブラッド・ピット演じるスタントマンのクリフ・ブースがマンソン・ファミリーの住む「スパーン映画牧場」に迷い込むシーンは、コミカルさはあるものの、来たるべき破局への道筋がはっきりと意識される瞬間である。さらに、本作ではマーゴット・ロビー演じるシャロン・テートがあまりにも魅力的なキャラクターとして描かれるため、悲劇性はより強調される。

 69年当時のボストン・グローヴ紙には、「暴力が感染するのならば、非暴力もまた感染するのだ。しかも笑顔とともに」という文言が記載された。しかし、笑顔と共に感染したラヴ・アンド・ピースにはやはりどこか無理があったのだ。「ウッドストック・フェスティバル」の4ヶ月後には「オルタモントの悲劇」が起きた。なんの皮肉か、非暴力は暴力へと変転していった。チャールズ・マンソンLSDで少女たちを洗脳した。笑顔で暴力が感染していった。そして、とうとう「ファミリー」は凶行に及んだ。


You Keep Me Hangin' On (Quentin Tarantino Edit) | Once Upon a Time in Hollywood OST

 だが、タランティーノは最後まで映像の力を信じていた。映画終盤、奇跡が起こるのだ。historía(歴史、物語)は映像、映画の力によって粉砕され、火炎放射器で燃やし尽くされる。幸福な映像が、他のすべてを押しのけて、再び主役に躍り出る。これは、映像を、そして映画を愛するすべての人への祝福だ。シャロン・テートを演じるマーゴット・ロビーが、本物のシャロン・テートの出演した映画を観ながら周囲の観客と笑った、あの涙の出るような美しいシーンが鮮やかに思い出される。そこに「確かに人間が生きていた」時代の空気が広がっていく。そして、映像と共に幸福が感染していく。これこそ、映像の力を信じ続けた人間にしか成し得ない奇跡であり、これこそが真の映像賛歌だ。そして何より、これこそが真の映画であると、私は言いたい。

 

「客体」と「主体」が一致するとき:『旅のおわり世界のはじまり』

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カンヌ国際映画祭で受賞を果たした「岸辺の旅」など国内外で高い評価を受ける黒沢清監督が、「散歩する侵略者」「Seventh Code」でもタッグを組んだ前田敦子を主演に迎え、シルクロードを舞台に、日本とウズベキスタンの合作で製作したロードムービー。取材のためにウズベキスタンを訪れたテレビ番組のレポーターが、番組クルーとともにシルクロードを旅する中で成長していく姿を、現地でのオールロケで描いた。いつか舞台で歌を歌うことという夢を胸に秘めたテレビ番組レポーターの葉子は、巨大な湖に潜む幻の怪魚を探すという番組制作のため、かつてシルクロードの中心として栄えた地を訪れる。早速、番組収録を始めた葉子たちだったが、思うようにいかない異国の地でのロケに、番組クルーたちもいらだちを募らせていく。そんなある日、撮影が終わり、ひとり町に出た葉子は、かすかな歌声に導かれ、美しい装飾の施された劇場に迷い込むが……。葉子と行動をともにする番組クルーたちに、加瀬亮染谷将太柄本時生と実力派が集結。
2019年製作/120分/G/日本・ウズベキスタンカタール合作
配給:東京テアトル

出典元:旅のおわり世界のはじまり : 作品情報 - 映画.com

 


前田敦子の涙が美しい…黒沢清監督『旅のおわり世界のはじまり』予告編

 黒沢清は、「こちら」と「あちら」が強烈に結びついているにもかかわらず、それでも両者が決して同一にはなり得ない、というジレンマを描いてきた作家のように思う。作中では、「こちら」と「あちら」は強い関係性を持つが、海や川のような水のモチーフ、またはカーテンや窓が両者を断絶し、その間のコミュニケーションの不可能性が強調される。さらに、この構造は、「こちら」としての観客と、「あちら」としての映画テクストにメタ的に敷衍できる。観客は彼の映画に強く惹きつけられるものの、映画世界との非連続性はいつまでも消えることがない。

 そして、本作『旅のおわり世界のはじまり』は、二重性を持つ「こちら」と「あちら」の関係性を再び深く考察した傑作であるように思う。

 まずオープニングから見事だ。「こちら」に位置する主人公の葉子(前田敦子)と、「あちら」すなわち窓の外にいるウズベク人がまず鮮烈に対置される。最初の台詞は「あちら」のウズベク人が話すウズベク語で、それに字幕は付されず、葉子にも、たいていの観客にも、その意味は理解できない。さらに、意図的に見切れさせた構図には、「こちら」に位置する観客の「覗き」の感覚を喚起し、「あちら」への安易な感情移入を拒むようなところがある。従来の黒沢映画が描いてきた「こちら」と「あちら」の決定的な断絶を重層的に、的確に示してみせたファーストカットである。

 葉子はバラエティ番組のリポーターを務めている。『世界の果てまでイッテQ!』と『世界ふしぎ発見!』を足し合わせて2で割ったような番組といえば分かりやすいかもしれない。彼女は”幻の怪魚”を探しにウズベキスタンの湖にやってくる。ディレクターの吉岡(染谷将太)から、何がいるかも分からない茶色く濁った湖に下半身までつかるよう指示され、彼女はその通りにする。彼女がおそらく、これまでもそのような過酷なロケを経てきたことは容易に想像できる。

 劇中のカメラマン岩尾(加瀬亮)が撮影を始めると、映画のスクリーンはテレビカメラのモニターと同一化する。葉子は広大な湖(「あちら」と「こちら」を隔てる水のモチーフのひとつ)のただなかで、明るい笑顔と明るい声でリポートを始める。この瞬間、葉子は、湖の向こうにいる「あちら」になる。いや、むしろ本作では、「あちら」を「客体」としたほうが的確かもしれない。興味深いのは、彼女が、観客にとっての映画テクストとしての「客体」になるばかりではなく、劇中のディレクター、カメラマン、ADにとって、もっと言えば、のちのテレビの前の視聴者にとっても「客体」になることだ。言うなれば、彼女は、周囲の無数の「主体」から断絶した、純然たる「客体」としての自己を世界でただ一人、背負うのである。

 ほかの撮影のシーンに関しても、彼女は徹底的に、暴力的に、「客体」として描かれる。根源的に、「タレント」という職業は「客体」でいることを要求され続けるものだから。その意味で、葉子役に前田敦子を起用したのは完璧だったと思う。前田敦子こそ、かつて日本で最も有名な「客体」だったのだ。

 葉子の「客体」として生きることの辛さが、その「客体」性に加担している観客にさえ痛感させられるのが、彼女が現地の絶叫アトラクションをレポートするシーンである。おそらく、本作を観た誰もがこのシーンのある種の残酷さには思わず目を背けたくなったのではないか。劇中の、ディレクター、カメラマン、AD、現地ガイド、地元住民、のちに想定される番組視聴者、そして私も含めた映画の観客のすべてが、よってたかって彼女を「客体」として徹底的に追い込む。彼女はそれが自分が選んだ仕事である以上、それらの要求をみな受け入れ、吐くまで「客体」としての自己を全うする。

 そんなハードな撮影の日々にあって、葉子の心を保ってくれるのは、東京湾の消防士である恋人とのスマホでのやりとりだ。そこでは、自身の「客体」性は薄まり、「主体」性を持つことを思い出させてくれる。葉子の「世界」はスマホの中にあり、彼女に外の美しい「世界」は目に入らない。

 面白いのは、「客体」として生きることの辛さをおそらく骨身に染みて感じているはずの葉子が、歌手になる夢を持っていることである。歌手だってタレント同様、「客体」として生きることを強く要求される仕事である。「客体」として生きることは辛いけれど、なお「客体」として生きる夢がある。葉子が持つ、このアンビバレントで揺れ動く心情は、のちの場面で丁寧に描かれることになる。

 その場面とは、劇場のシーンだ。葉子がウズベキスタンの町中を歩いていると、噴水の向こうに巨大な劇場が現れる。(劇場と葉子の間に水のモチーフを介したのは、劇場という存在自体が、「客体」を提示する大きな装置であることを暗示しているのかもしれない。)葉子が劇場の中に入っていくと、そこでは歌手が歌っている。葉子はその様を「主体」として見つめるうちに、白昼夢を見る。葉子は2つに分離し、ひとつは「客体」として「愛の賛歌」を歌い上げる歌手に、またひとつは、「主体」として歌手になった自分を見つめる観客になる。これは明らかに、葉子の中で、「主体」としての自分と「客体」としての自分が一致していないことを示している。


Edith Piaf - L'hymne à l'amour + Paroles

 葉子はその後、「主体」として生きることの楽しさを実感することになる。ロケに向かう車内で、ディレクターの吉岡が、葉子自身に撮影させてみてはという提案をする。承諾した葉子はカメラを手に市場へと乗り出し、自らの手で撮影を始める。撮影している葉子の姿は、これまでになかったほどに嬉しそうで、楽しそうで、そこでは自己の「客体」性は完全に消滅している。「主体」としての葉子は、自分自身の中にでもスマホの中にでもなく、外の美しい世界にひたすらに「客体」を見いだすのである。

 しかし、撮影禁止の建物にカメラを向けてしまったことから、葉子は警官に追われる身となる。追われるということは、自らの「客体」性がにわかに露呈されることだ。葉子はついに警官に見つかり、署に連行されてしまうが、これは、葉子の「主体」としての生が瞬時に挫折してしまったことを意味する。

 葉子の誤解がとけ、釈放されて間もなく、葉子は東京湾の火災のニュースを目にする。消火に当たる消防士の中に死人も多く出ているという。この瞬間、葉子はふたたび強烈に「主体」化される。同時に「客体」化されるのはもちろん消防士の恋人だ。結局、恋人は生きており、葉子に電話を掛けてくるのだが、そのとき葉子は言う。「生きた心地がしなかった」、と。そうか、「主体」としての生もやはり、それはそれでひどく辛いものなのだ。彼女は納得する。

 黒沢清の映画は、後半に突飛な展開が控えていることが多い。そして、その突飛さから日常へと帰還した登場人物たちは往々にして、何らかの成長を遂げている。本作における「突飛な展開」とは、上記の東京湾の火災だろう。そしてやはり、それを経た葉子は成長する。ラストシーンでは、葉子の成長が祝福される。

 葉子を含めた撮影クルーは、ロケのために山を登っている。そして葉子は山の頂上でヤギを見つける。このまえ自分たちの手によって自由を与えられたヤギだ、葉子はそう確信する。このとき、葉子と現地人の間の、あるいは葉子とヤギの間の、コミュニケーションの不可能性が打倒される。相手のことをすべて理解することなどできない。だが、葉子がヤギに対して感じたような「共感」の力は、言語が通じなくたって相手のことを察することなら出来るではないか。「心ここにあらず」状態だった葉子の前に世界が開けていく。

 そして、葉子は歌うのだ。ふたたび「愛の賛歌」である。だが今回は「主体」と「客体」が分離することなどない。心に迷いなどない。彼女は究極の「主体」として、そして同時に究極の「客体」として歌いあげる。「主体」としての彼女にとって「客体」とは「世界」であり、「客体」としての彼女にとって「主体」とはまた「世界」である。すなわち、彼女は「世界」を見て、同時に「世界」に見せつけるのだ。「世界」とはスマホの中のものではない。そして、映画の中だけのものでもない。われわれ観客が生きるこの現実も含めたすべての「世界」だ。葉子がカメラを通してこちらを見つめるとき、覗きに終始していた観客も「客体」となる。もはや夢に臆することはない。葉子は「世界」に「客体」視されることを拒まない。なにしろ彼女も「主体」として「世界」を見ているのだから。葉子の旅はおわる。葉子の世界がはじまる。観客は試されている。

夢についての映画、映画という夢:『アイズ・ワイド・シャット』

 

 

 ある夫婦の愛と性をめぐる心の相克を冷徹に映し出したシリアス・ドラマ。監督・製作は「2001年宇宙の旅」「時計じかけのオレンジ」などの巨匠スタンリー・キューブリックで、88年の「フルメタル・ジャケット」以来11年ぶりとなる本作完成直後死去し、本作が遺作となった。脚本は19世紀末の文豪アーサー・シュニッツラーの『Tarumnovelle』を原典にキューブリックフレデリック・ラフェエルが執筆。製作総指揮はキューブリック作品の常連であるジャン・ハーラン。撮影(クレジットはライティング・キャメラマン)はラリー・スミス。音楽は英国で活動するジョスリン・プーク。美術はレスリー・トムキンズとロイ・ウォーカー。編集はナイジェル・ゴルト。衣裳はマリット・アレン。出演は実生活でも夫婦であるトム・クルーズ(「ザ・エージェント」)とニコール・キッドマン(「プラクティカル・マジック」)、監督でもある「夫たち、妻たち」のシドニー・ポラック、「ツイスター」のトッド・フィールド、「日曜日のピュ」のマリー・リチャードソン、「ディープ・インパクト」のリーリー・ソビエスキー、「恋のレディ&レディ?」のヴィネッサ・ショーほか。

 1999年製作/159分/アメリカ/
原題:Eyes Wide Shut
配給:ワーナー・ブラザース映画

出典元:https://eiga.com/movie/41758/

 

 


Eyes Wide Shut - Trailer 2015

 キューブリックの遺作「アイズ・ワイド・シャット」が「夢と現実の錯綜」を描いている、などとという指摘は、もう至るところでなされていて、そこに真新しさは微塵もないかもしれない。そして、非常に残念だが、私は本稿でそれを超え出た意見を提示できるとも思っていない。語り尽くされた作品を再び評論するというのは難しいものだ。ただ、キューブリックの作品の中ではいまだ過小評価ぎみにも思われる本作を、いま再考することはそれなりに意義があるだろうと思う。20世紀という不可思議な時代とともに墜ちた巨星キューブリックは、その最後の作品で何を描こうとしたのだろうか。

 原作は、アルトゥール・シュニッツラー(1862~1931)の『夢小説(Traumnovelle)』。原作のタイトルからして、本作が「夢」と密接に結びついている、どころか、「夢」そのものをテーマにしているということは自明である。(ただし、原題のtraumには「夢(traum)」ばかりでなく、「トラウマ(trauma)」の意が込められている。不勉強ながら私は原作小説は未読だが、たしかに、映画版を観る限り、「夢」ばかりでなく「トラウマ」も重要な主題であると言えるだろう。)

 「夢」などというとらえどころのないものをテーマにする以上、作品は難解なものになりがちだ。本作も例外ではない。むしろ、特に厄介な代物と言えるかもしれない。なにしろ、「夢」と「現実」が渾然一体に描かれているのだ。考えてみれば、難解さでは引けをとらないデヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライヴ』でさえ、「夢」と「現実」に関してはかなりシンプルに弁別されていた。だが、本作はどこが「夢」で、どこが「現実」なのかを明示しない。というか、それを描写する必要性すら放棄しているような印象がある。どういうことなのか。

 そこで、本作に登場する夢をもう一度きちんと見直してみよう。すると、本作に登場する夢は大きく3つに分けることができると分かる。そのうちストーリーに関わるのは、①ビルの覚醒夢 ②アリスの睡眠中の夢 の2つである。この2つは複雑に呼応し、短絡的な解釈を許さない。まずは本作におけるこれら2つの夢の描写についてしばし検討してみよう。

 まずは映画冒頭。劇伴として流れるショスタコーヴィチのセカンド・ワルツを、あろうことか劇中のビルがスイッチひとつで止めてしまう。この時点で、リアル(現実)とフィクション(夢)の境界を曖昧にし、観客を挑発しているようなところがある。また、続くパーティのシーン。会場にはすでにどこかドリーミーな雰囲気がただよっているのだが、決定的なのは、ビルにつきまとうモデルふたりが、「虹のふもと」などという意味深長な発言をしていることである。これはのちに登場する貸し衣料店の名前「レインボー」と奇妙に響き合う。その後のファンタジックな展開を待たずして、すでに現実空間の中に夢想は展開されているのだ。


Dmitri Shostakovich - Waltz No. 2

 また、映画中盤の宮殿での儀式のシーン。本作の白眉ともいえるような、魅惑的で謎の多い場面だ。この場面のどこまでを現実とするのか、あるいはすべて夢なのか、それを見分けることは不可能だろうし、そこに意味もないだろう。夢について考察する上でここで注目すべきは、「仮面」のモチーフである。「仮面」から容易に連想されるのはユングの提唱した「ペルソナ」だ。「ペルソナ」とは、人が外界へ適応するために必要とされる、役割の演技のことである。人はみな、ペルソナを持つ。だが、自身の内的側面とペルソナの整合性がとれなくなると、人は「不安夢」を見るという。

 そして、ビルの見る覚醒夢には一貫して、ある種の不安感が伴っている。これも一種の不安夢だ。よって、ビルは自身のペルソナとの不一致感に苛まれているということができるだろう。さて、この不一致感はどこから来たものだろうか。

 少し戻って、冒頭のパーティのシーンで主催者のジーグラーはこう言っている。「結婚は良いものだが、お互いにだまし合いが必要になる」、と。これは、夫婦間にはそれ相応のペルソナが必要だという話である。また、アリスはビルに「女性患者の裸を見てあなたは興奮しないの?」と詰め寄る。ここでは、ビルの医者としてのペルソナが試されている。そして、こうしたビルの外的側面が、ビルの内側側面と齟齬を生じることにより、嫉妬が喚起され、ビルにめくるめく不安夢を見させたのである。

 一方、妻のアリスもまた夢を見る。本作における第2の夢であり、こちらは睡眠中の夢だ。これが、ビルの覚醒夢、特に儀式の場面と奇妙に類似している。この不可思議な展開を、ビルの覚醒夢の一部と包括することもできよう。しかしそれは、あまりにも短絡的だし、アリスの存在がそんなに曖昧なものとは思われない。そこで私が考えるのは、ビルとアリスが同様の不安を共有しているのではないか、ということだ。同様の不安とは、ペルソナの不一致感である。そもそも映画の序盤で、アリスが海軍士官との情事を妄想したことを打ち明け、ビルとアリスの男女観の違いが露わになるシーンは、彼女も妻としてのペルソナと折り合いが付いていないことの現れのように思える。

 本作における夢に関しては、別のアプローチも考えられる。特に、アリスという名とルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』との対応関係については言及するべきだろう。少女の方のアリスが、夢の世界へと迷い込む契機となるのは「退屈」である。これは倦怠期のビルとアリス夫妻が抱える感情と一致する。さらに、「退屈」は「不安」と隣り合わせのようなところがある。退屈からの逃避は不安を生み、不安からの逃避は退屈を生むのだ。『アイズ・ワイド・シャット』と『不思議の国のアリス』の物語を一言で形容するとしたら、「主人公が退屈からの逃避により不安な夢の世界へと誘われ、その不安から再度逃避する物語」とすることができるかもしれない。大きな違いは、前者に関しては、夢を見るのが二人であることだ。

 『不思議の国のアリス』同様、『アイズ・ワイド・シャット』は終盤、夢想から解放される方向へと進んでいく。大きな契機となるのは、ビルが、眠るアリスの隣に置かれた仮面を目撃することだ。この仮面は、儀式の際、ビルが自らの手で脱いだものである。このシーンは、ビルの演技がアリスに一切合切ばれてしまったことを暗示する。そしてこの構図は同時に、アリスが仮面を脱いだ様にも見える。そのあと挿入されるシーンでは、ビルとアリスとが交互にカットバックされる。ビルがすべてを打ち明けた後なのだろう。ビルとアリスの間には一種、超越的な空気感が漂っている。ビルとアリスは夢からついに目覚め、『2001年宇宙の旅』において人類が「進化」したように、夫婦としての「進化」を経験するのである。

 ゆえに、ラストシーンにおいて、「進化」を経た両者の発言は非常に重要だ。「それが事実であれ夢であれ」、「危険な冒険」を「なんとか無事にやり過ごすことが出来た」ことを「感謝するべき」だとアリスは言う。ここには、両者ともに夢うつつの状態から解放されたことが仄めかされている。しかし、アリスは同時に「一晩のこともそうであるように、ましてや生涯のことなんて、真実かどうか」分からないと言う。さらに、ビルはこう続ける。「夢もまたすべて、ただの夢では無い」と。すなわち、彼らは、夢うつつの不安定な状態からは解放されたかもしれないが、だからといって、現実を絶対視することも、夢をないがしろにすることもできない、つまるところ、我々には何も分かり得ない、という超越解を導き出すのだ。

 さらにアリスは現在、そして未来について語る。「大切なのは、いま私たちは起きている」、「そして、これからも目覚めていたい」と。そして続ける。「いま私たちにいちばん必要なことをすべきだわ」。ビルがそれは何だと問う。少しの間。「Fuck」


Final de la película "Eyes Wide Shut"

 理解に苦しむラストである。キューブリックが全キャリアを「Fuck」の一言で終えたというのは肩すかし的で、それはそれで劇的ではあるのだが、これをたんに「セックス」の意味に受け取るのは短絡的すぎる気もする。

 これを考えるために、オープニングを振り返ってみたい。なにしろ、オープニングとエンディングは往々にして重要な「何か」を共有するものなのだ。本作のオープニングは先述したとおり、劇伴のセカンド・ワルツを劇中のビルが止める、というエキセントリックなものである。これは、第三の壁をやんわりと突き崩し、観客(現実)と映画世界(夢)をないまぜにする。さて、エンディングにも同様の構造があるのではないかと思う。すなわち、「Fuck」という言葉は映画世界(夢)で発せられたものであると同時に、観客(現実)に向けられた言葉でもあるということだ。

 この円環構造は、観客に対して自己言及的な再確認を迫る。すなわち、「映画もまた夢=偽物だ」という身も蓋もない再確認だ。第1、第2に次ぐ第3の夢とは映画そのものだったのである。夢をテーマにする映画が、その表現媒体そのものの「夢」性にまで言及して終わる、というのはキューブリックらしい皮肉だ。夢に二時間半付き合った観客を冷ややかに見つめ、「いいかげん目覚めろ」と呟くキューブリックの姿が目に見えるようである。これはキューブリックが死に際して残した、いわば捨て台詞のようなものかもしれない。

 キューブリックは20世紀後半の映画の最大の担い手だ。彼はついに「2001年」を迎えることなく、20世紀とともに死んだが、1本の奇妙なフィルムを遺していった。それが、「アイズ・ワイド・シャット」である。我々観客に残されたキューブリックの遺言は「Fuck」だった。彼が「Fuck」に込めた意味を汲み尽くすことは到底できないが、そこには観客、社会、世界に対するシニカルな視線があったように思う。あるいは、むしろ何も意味などなかったのかもしれない。しかし、劇中でも示されているように、我々には何も分かり得ないのだし、つまるところ、映画は夢なのだ。気楽に行こう。

 

 

ピクサーの「真摯さ」という狂気:『トイ・ストーリー4』

 

おもちゃの世界を舞台に描くピクサー・アニメーションの大ヒットシリーズ「トイ・ストーリー」の第4作。ウッディたちの新しい持ち主となった女の子ボニーは、幼稚園の工作で作ったフォーキーを家に持ち帰る。ボニーの今一番のお気に入りであるフォーキーを仲間たちに快く紹介するウッディだったが、フォークやモールでできたフォーキーは自分を「ゴミ」だと認識し、ゴミ箱に捨てられようとボニーのもとを逃げ出してしまう。フォーキーを連れ戻しに行ったウッディは、その帰り道に通りがかったアンティークショップで、かつての仲間であるボー・ピープのランプを発見する。一方、なかなか戻ってこないウッディとフォーキーを心配したバズたちも2人の捜索に乗り出すが……。ボー・ピープが「トイ・ストーリー2」以来19年ぶりに再登場を果たすほか、物語の鍵を握るフォーキー、ふわもふコンビのダッキー&バニー、かわいいアンティークのおもちゃギャビー・ギャビーなど新キャラクターたちも続々と登場。数々のピクサー作品でストーリーボードアーティストを担当し、「インサイド・ヘッド」では脚本にも参加したジョシュ・クーリーが長編初監督を務める。
2019年製作/100分/G/アメリカ/
原題:Toy Story 4
配給:ディズニー

出典元:トイ・ストーリー4 : 作品情報 - 映画.com


「トイ・ストーリー4」日本版予告

 かつて、ルネ・デカルトという哲学者がいた。彼は、その著作、『方法序説』のなかで、絶対的な「真実」を問う実験を行った。彼にとってはこの世界も、我々の精神も、論理も感覚も、みな一様に疑わざるをえないものであった。そうして思索を深めるうち、彼は超越的な解に至る。「我思う故に我あり」。すなわち、絶対的な真実とは何か、と「思索する私」は何者かでなければならず、その存在こそが絶対的な真実である、と結論づけたのだ。

 なぜ、デカルトのことなど書くのか。それは、『トイ・ストーリー4』はウッディという思索者によるデカルト的探求の物語であり、ウッディの「おもちゃ」としての「実存」をめぐる問いの追求の物語である、と私は考えるからである。

 95年公開の第1作目『トイ・ストーリー』において、主人公のウッディは、自身が「おもちゃ」であることを自覚せずにいるバズに向かって「君はおもちゃなんだよ!(You are a toy!)」と訴える。稀代の名シーンであるが、今思えば、ウッディのエゴイスティックな「役割観」はここに端を発するといえる。ウッディにとっての「役割観」とはすなわち、「おもちゃはおもちゃらしく持ち主に必要とされなければならない」というものだ。この「役割観」はシリーズ3作目『トイ・ストーリー3』に至るまで、ウッディなりの「正義」として存在し続ける。『トイ・ストーリー3』の達成とは、ウッディの(少し無理がある)「役割観」を、絶対視はせずともしっかり観客に同意させたこと、そして、アンディからボニーへ、という世代交代を描くことで「役割」を見事に保ったことだ。完結編としては至上の出来だった。


Toy story you are a toy

 だが、ピクサーはシリーズを終わらせなかった。蛇足的な宿命を背負って『トイ・ストーリー4』は誕生した。そこにはピクサーの探求への異様な執念が見える。

 『トイ・ストーリー4』の主眼は、ウッディの「役割観」を疑うことにあった。先述したように、ウッディの「役割観」には少し無理があった。ピクサーにはそこが気がかりだったのではないか、と思う。言ってみれば、「役割観」など自己中心的な正義でしかなかったのである。(そこに9・11以降の「正義」への問い、あるいは世界的な多様化への流れを見て取ることも出来ようが、ここではポイントを絞るために省略する。)

 本作において、「役割観」が絶対確実なものではないとウッディに思索させる契機になるのが、ふたりの「他者」、すなわち、「フォーキー」と「ボー・ピープ」である。

 まず、非常に特異なキャラクター、フォーキーについて考えよう。フォーキーにはふたつの意味で二面性がある。フォーキーは「ごみ/おもちゃ」と「もの/おもちゃ」というふたつの境界線に位置する存在なのだ。


映画『トイ・ストーリー4』ウッディがフォーキーを紹介する本編映像

 まずは、「ごみ/おもちゃ」の境界線をさまよう存在としてのフォーキーについて。こうした存在としてのフォーキーはウッディの「役割観」を真っ向から突き崩しにかかってくる。なにしろ、フォーキーはいくらボニーから「おもちゃ」として認識されようが、かつて「ごみ」であった以上は、「ごみ箱にいること」を「役割」と考えている。そうした意味で、フォーキーはシリーズの根幹をなしていたウッディの「役割観」に絶えず反抗するキャラクターだ。こうした信念を持った他者は、ウッディにとってはフラストレーションの溜まる相手である。しかし同時に、ウッディに(そして観客に)価値観の相対性を気づかせる契機にもなっている。

 そして、その延長線上に(いわば必然的に)生じてくる大問題が、フォーキーの「もの/おもちゃ」としての二面性である。「もの」、「おもちゃ」という用語が曖昧に感じられるのであれば、前者を「思考しないもの」、後者を「思考するもの」と規定してもよい。『トイ・ストーリー』シリーズの大発明とは、「おもちゃ」が思考する、という世界観を構築したことである。しかし、シリーズ4作目にいたって、フォーキーというキャラクターの存在は、これをさえ疑義の対象に入れてしまう。フォークは思考しないが、フォーキーは思考するのだ。ではそもそも、「もの」と「おもちゃ」との間に一線を画しているものは何なのか。ウッディの思索は、そんな根源的な問いに到達する。

 余談だが、フォーキーをボニーに作らせたのが他ならぬウッディである、という点は象徴的だ。ウッディは、ある日突然やってきた他者に悩まされるわけではない(それはむしろシリーズ1作目の構造である)。本作においてウッディが自身のアイデンティティを疑うことになるのは、あくまで自身の意志と選択がそのようにさせたからである。「思考するもの」という格別の地位を与えられながら、「役割観」という括弧付きの「正義」に固執し、一種の「思考停止」に陥っていたウッディは、本作にいたり、ついに自らの意志で本来の「思考」を開始した、と見ることもできる。実に10年代の映画然としていると思う。

 さて本題に戻ろう。ウッディはそれまで、根源的な問い「もの/おもちゃの境界線」とは「持ち主に必要とされること」だと決めつけていた。しかしそこに、第2の他者、ボー・ピープ(以下ボー)という奇妙な存在が登場する。ボーは本作では、持ち主のいない「迷子のおもちゃ」として登場する。これもまた、ウッディのアイデンティティの基礎となっていた「役割観」を大きく揺るがすことになる。ボーは持ち主がいなくとも「おもちゃ」たりえているのだ。それをどう考え、どう説明するのか。

 私はここで、本作に執拗に登場する哲学的用語「内なる声」が鍵になるのではなかろうか、と考える。ウッディは気づくのだ。「内なる声」が存在し、それに従いうる「私」がいる限り、「もの」でなく「おもちゃ」でいることは可能なのではないか、と(バズはこれを曲解し、自身の音声データに従うわけだが、当然そういうことではない)。つまり、自身が「もの」であるか「おもちゃ」であるかは一旦置いておくとしても、「思索する私」が存在する限りでは、自身は「おもちゃ」たりえるのではないか。そして、これはまさにデカルトの思索の帰結と似たものである。

 そして、さらに驚くべきことに、ウッディの思索はここからさらに発展を見せる。

 20世紀の哲学者ジャン・ポール・サルトルは「実存は本質に先立つ」という言葉を残している。つまりは、「人間」というものはとりあえず「存在」し、その後にその存在の「価値」や「意味」が規定される、ということだ。対して「もの」においては、「本質は実存に先立つ」。たとえば、ペーパーナイフは「紙を切る」という「価値」、「意味」を有して「存在」してくるのである。これがサルトル流の人間存在の考え方であって、「もの/人間の境界線」だということになる。


PHILOSOPHY - Sartre

 ウッディは同様の線引きを「もの/おもちゃ」間に行った。すなわち、「おもちゃ」の「実存は本質に先立つ」と。

 まとめよう。ウッディはデカルト的思索に従って「思索する私」という「実存」を発見した。そして、「おもちゃはおもちゃらしく持ち主に必要とされなければならない」という「本質が実存に先立つ」ような、「もの」に適用される価値観から離脱し、ボーが象徴するような、これから「価値」、「意味」といった「本質」を見つけとっていく「人間的な存在=おもちゃ」となることを選んだ、ということだ。「絶対神」としての「持ち主」の消滅である。その意味で、宇多丸氏の「奴隷制のアナロジー」という指摘にはハッとさせられた。

 本作のラストに「不穏さ」がただよっていたことに気づいた観客も多いだろう。私はここに、サルトルの恐ろしい言葉「我々は自由の刑に処せられている」を連想した。「自由」には「良いもの」というイメージがある。確かにその通り。しかし、同時に「自由」を享受することに伴う「責任」の重みというものは「刑罰」に等しい。ウッディの状況に即して説明すれば、「持ち主に必要とされる」という「役割」に従順でいる限りは楽なのだが、一旦、自己の「本質」を自らの手でつかみとる存在として生きることを決めたならば、「責任」に対する「不安」、「孤独」も必然的に浮かび上がってくることになるということである。「自由」に生きるボーが、『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』のフュリオサ然とした出で立ちで登場したことは象徴的だろう。


映画「マッドマックス 怒りのデス・ロード」日本版特報 「マッドマックス」30年ぶりの新作

 しかし、それでもウッディはこれから「本質」を見つけとっていくことに決めたのである。強調しておくべきは、本作はウッディのアイデンティティの「方向性」が定まる物語に過ぎないということだ。最後の最後まで、アイデンティティそのものが定まることはない。「本質」を見つけとっていくのはこれからだ。そして、それは同時に観客への大いなる問いかけでもある。「君たちはどう生きるか」という問いかけである。

 本作は、手放しに賞賛できるような作品ではないかもしれない。蛇足感はどうしても拭い去れなかった。しかし、実はそこに本作の魅力の根源があると思う。蛇足だからこその、攻めに攻めた実験的なアプローチはピクサーの新たな達成だ。問いに対してここまで真摯に追求し、それでいてエンターテインメントとしても優れた映画を作り上げるピクサーの手腕には、一種の狂気すら感じる。怪作である。


Randy Newman - You've Got a Friend in Me (From "Toy Story 4"/Audio Only)

歴史の光で絵画を照らす:高階修爾『近代絵画史 上・下』

歴史を学ぶときに大事なのは「流れ」だと、高校の教師に散々言われた。個々の事象だけを覚えたところで、役に立たないと。それはテストで点を取るための方策に過ぎなかったのかもしれない。しかし、本書を読むと絵画の歴史の「流れ」が生む恐ろしいまでの束縛に驚愕する。歴史は流れていくが、清らかな小川ではない。黒く泡立つ濁流である。

本書が扱うのは近代の絵画史だ。すなわち、ロマン主義の登場から20世紀の抽象絵画に至る、絵画が奇妙に変質を遂げた時代の歴史である。なぜここまでの変質をとげたのか、それは多くの人にとってすでに謎であるはずだ。印象派の画家たちやピカソはなぜあんな描き方をしたのだろうか。なぜデッサンを重んじた新古典主義が台頭してから、ものの150年の間に、モンドリアンは原色のみを用いて幾何学的図形を描くに至ったのであろうか。なぜ「何を描いているのかよく分からない」絵が名作として尊ばれているのだろうか。

本書はそれらの謎を平易な文章でものの見事に解決してみせる。カギはただひとつ。「歴史の流れ」だ。そもそも美術史の流れとは「破壊と創造」の絶え間ないリピートである。ヘーゲルに倣って言えば、テーゼは必ずアンチテーゼに取って代わられる。そしてアウフヘーベン(これは必須。ほとんどの革新的画家は過去に学んでいる。)を経た後、それはきっとテーゼとなる。そしてまた思いもよらぬアンチテーゼが登場して・・・。この歴史観の面白いところは、異端が正統となることであって、さらに先鋭化した異端が登場することである。すなわち、正統は次第に奇妙に変質してゆかざるを得ない。すべての正統はもともと異端だったのだから。

美術史に限った話ではない。この世界全体はそのようにして動いてきたとも言える。ただ、近代絵画史において、「変質」がもっとも奇妙な形で現れたのは、その担い手が比較的小さな集団であって、絵画の売上げを考えない限りでは「社会」に則する必要などなかったからである。世界全体の歴史は、それ自体が「社会」の歴史である。大量の人間の生活がかかっている以上、かつての異端は大幅な修正を余儀なくされる。結局のところ、本質的に古代ギリシアから政治体制に大幅な変質は起きていない。しかし絵画の歴史に限ってみれば、異端が自らの表現を修正することは比較的少ない。または、修正したとして、修正前の世界を驚かせた作品の価値を超え、新たにテーゼを設定するのは難しい。たいてい異端は異端とされた時の形質を保ったまま正統となる(思い出してほしい。印象派を説明するのにはモネの「印象・日の出」が、キュビズムを説明するのにはピカソの「アヴィニョンの娘たち」がしばしば使われるのである。)。それを覆すには、さらに過激な表現を目指さざるを得ない。その結果、ある意味必然的に「印象派ピカソはあのように描いた」のであり、「モンドリアンは原色の幾何学的図形を描いた」のであり、「何を描いているのかよく分からない」絵は登場してくるのである。いやはや、これほどまでにダイナミックで特異的な展開を見せた歴史があったろうか。

いわば、歴史が絵画の有りようを規定しているのであり、歴史の流れが絵画の有りようを変えているのである。当時の人々はその歴史の流れを生きていたのであるから、絵画に対してある種「正しい」反応ができたのであろう。それが肯定感情でも否定感情でもだ。しかし、それは我々にはもはや無理な相談である。できることと言えば、近代絵画史を時系列順にたどり、ある時代においてある絵画が登場してきたということ自体を考察することである。そうして、我々も極力「正しい」反応に近づけるよう努力するのである。例えば、カンディンスキーの絵の凄みは歴史を紐解くことではじめて深く分かるようになる。そのカンディンスキーの絵の有りようを大きく規定しているのは、絵画に重くのしかかる「歴史の流れ」なのだから。

歴史の概説書というものは往々にして退屈である。しかし本書は、近代絵画の歴史自体の面白さと、著者の簡潔でわかりやすい文章が溶け合い、我々が西洋美術に対して漠然とながら抱いていた謎を時系列に沿って解き明かしていく。「教養として」という言葉は軽薄な自己啓発本の類いを思い起こさせ、あまり好ましくないような気もするが、いやしかし、これは我々に近代西洋絵画を規定するものを「教え養う」名著である。