夢についての映画、映画という夢:『アイズ・ワイド・シャット』

 

 

 ある夫婦の愛と性をめぐる心の相克を冷徹に映し出したシリアス・ドラマ。監督・製作は「2001年宇宙の旅」「時計じかけのオレンジ」などの巨匠スタンリー・キューブリックで、88年の「フルメタル・ジャケット」以来11年ぶりとなる本作完成直後死去し、本作が遺作となった。脚本は19世紀末の文豪アーサー・シュニッツラーの『Tarumnovelle』を原典にキューブリックフレデリック・ラフェエルが執筆。製作総指揮はキューブリック作品の常連であるジャン・ハーラン。撮影(クレジットはライティング・キャメラマン)はラリー・スミス。音楽は英国で活動するジョスリン・プーク。美術はレスリー・トムキンズとロイ・ウォーカー。編集はナイジェル・ゴルト。衣裳はマリット・アレン。出演は実生活でも夫婦であるトム・クルーズ(「ザ・エージェント」)とニコール・キッドマン(「プラクティカル・マジック」)、監督でもある「夫たち、妻たち」のシドニー・ポラック、「ツイスター」のトッド・フィールド、「日曜日のピュ」のマリー・リチャードソン、「ディープ・インパクト」のリーリー・ソビエスキー、「恋のレディ&レディ?」のヴィネッサ・ショーほか。

 1999年製作/159分/アメリカ/
原題:Eyes Wide Shut
配給:ワーナー・ブラザース映画

出典元:https://eiga.com/movie/41758/

 

 


Eyes Wide Shut - Trailer 2015

 キューブリックの遺作「アイズ・ワイド・シャット」が「夢と現実の錯綜」を描いている、などとという指摘は、もう至るところでなされていて、そこに真新しさは微塵もないかもしれない。そして、非常に残念だが、私は本稿でそれを超え出た意見を提示できるとも思っていない。語り尽くされた作品を再び評論するというのは難しいものだ。ただ、キューブリックの作品の中ではいまだ過小評価ぎみにも思われる本作を、いま再考することはそれなりに意義があるだろうと思う。20世紀という不可思議な時代とともに墜ちた巨星キューブリックは、その最後の作品で何を描こうとしたのだろうか。

 原作は、アルトゥール・シュニッツラー(1862~1931)の『夢小説(Traumnovelle)』。原作のタイトルからして、本作が「夢」と密接に結びついている、どころか、「夢」そのものをテーマにしているということは自明である。(ただし、原題のtraumには「夢(traum)」ばかりでなく、「トラウマ(trauma)」の意が込められている。不勉強ながら私は原作小説は未読だが、たしかに、映画版を観る限り、「夢」ばかりでなく「トラウマ」も重要な主題であると言えるだろう。)

 「夢」などというとらえどころのないものをテーマにする以上、作品は難解なものになりがちだ。本作も例外ではない。むしろ、特に厄介な代物と言えるかもしれない。なにしろ、「夢」と「現実」が渾然一体に描かれているのだ。考えてみれば、難解さでは引けをとらないデヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライヴ』でさえ、「夢」と「現実」に関してはかなりシンプルに弁別されていた。だが、本作はどこが「夢」で、どこが「現実」なのかを明示しない。というか、それを描写する必要性すら放棄しているような印象がある。どういうことなのか。

 そこで、本作に登場する夢をもう一度きちんと見直してみよう。すると、本作に登場する夢は大きく3つに分けることができると分かる。そのうちストーリーに関わるのは、①ビルの覚醒夢 ②アリスの睡眠中の夢 の2つである。この2つは複雑に呼応し、短絡的な解釈を許さない。まずは本作におけるこれら2つの夢の描写についてしばし検討してみよう。

 まずは映画冒頭。劇伴として流れるショスタコーヴィチのセカンド・ワルツを、あろうことか劇中のビルがスイッチひとつで止めてしまう。この時点で、リアル(現実)とフィクション(夢)の境界を曖昧にし、観客を挑発しているようなところがある。また、続くパーティのシーン。会場にはすでにどこかドリーミーな雰囲気がただよっているのだが、決定的なのは、ビルにつきまとうモデルふたりが、「虹のふもと」などという意味深長な発言をしていることである。これはのちに登場する貸し衣料店の名前「レインボー」と奇妙に響き合う。その後のファンタジックな展開を待たずして、すでに現実空間の中に夢想は展開されているのだ。


Dmitri Shostakovich - Waltz No. 2

 また、映画中盤の宮殿での儀式のシーン。本作の白眉ともいえるような、魅惑的で謎の多い場面だ。この場面のどこまでを現実とするのか、あるいはすべて夢なのか、それを見分けることは不可能だろうし、そこに意味もないだろう。夢について考察する上でここで注目すべきは、「仮面」のモチーフである。「仮面」から容易に連想されるのはユングの提唱した「ペルソナ」だ。「ペルソナ」とは、人が外界へ適応するために必要とされる、役割の演技のことである。人はみな、ペルソナを持つ。だが、自身の内的側面とペルソナの整合性がとれなくなると、人は「不安夢」を見るという。

 そして、ビルの見る覚醒夢には一貫して、ある種の不安感が伴っている。これも一種の不安夢だ。よって、ビルは自身のペルソナとの不一致感に苛まれているということができるだろう。さて、この不一致感はどこから来たものだろうか。

 少し戻って、冒頭のパーティのシーンで主催者のジーグラーはこう言っている。「結婚は良いものだが、お互いにだまし合いが必要になる」、と。これは、夫婦間にはそれ相応のペルソナが必要だという話である。また、アリスはビルに「女性患者の裸を見てあなたは興奮しないの?」と詰め寄る。ここでは、ビルの医者としてのペルソナが試されている。そして、こうしたビルの外的側面が、ビルの内側側面と齟齬を生じることにより、嫉妬が喚起され、ビルにめくるめく不安夢を見させたのである。

 一方、妻のアリスもまた夢を見る。本作における第2の夢であり、こちらは睡眠中の夢だ。これが、ビルの覚醒夢、特に儀式の場面と奇妙に類似している。この不可思議な展開を、ビルの覚醒夢の一部と包括することもできよう。しかしそれは、あまりにも短絡的だし、アリスの存在がそんなに曖昧なものとは思われない。そこで私が考えるのは、ビルとアリスが同様の不安を共有しているのではないか、ということだ。同様の不安とは、ペルソナの不一致感である。そもそも映画の序盤で、アリスが海軍士官との情事を妄想したことを打ち明け、ビルとアリスの男女観の違いが露わになるシーンは、彼女も妻としてのペルソナと折り合いが付いていないことの現れのように思える。

 本作における夢に関しては、別のアプローチも考えられる。特に、アリスという名とルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』との対応関係については言及するべきだろう。少女の方のアリスが、夢の世界へと迷い込む契機となるのは「退屈」である。これは倦怠期のビルとアリス夫妻が抱える感情と一致する。さらに、「退屈」は「不安」と隣り合わせのようなところがある。退屈からの逃避は不安を生み、不安からの逃避は退屈を生むのだ。『アイズ・ワイド・シャット』と『不思議の国のアリス』の物語を一言で形容するとしたら、「主人公が退屈からの逃避により不安な夢の世界へと誘われ、その不安から再度逃避する物語」とすることができるかもしれない。大きな違いは、前者に関しては、夢を見るのが二人であることだ。

 『不思議の国のアリス』同様、『アイズ・ワイド・シャット』は終盤、夢想から解放される方向へと進んでいく。大きな契機となるのは、ビルが、眠るアリスの隣に置かれた仮面を目撃することだ。この仮面は、儀式の際、ビルが自らの手で脱いだものである。このシーンは、ビルの演技がアリスに一切合切ばれてしまったことを暗示する。そしてこの構図は同時に、アリスが仮面を脱いだ様にも見える。そのあと挿入されるシーンでは、ビルとアリスとが交互にカットバックされる。ビルがすべてを打ち明けた後なのだろう。ビルとアリスの間には一種、超越的な空気感が漂っている。ビルとアリスは夢からついに目覚め、『2001年宇宙の旅』において人類が「進化」したように、夫婦としての「進化」を経験するのである。

 ゆえに、ラストシーンにおいて、「進化」を経た両者の発言は非常に重要だ。「それが事実であれ夢であれ」、「危険な冒険」を「なんとか無事にやり過ごすことが出来た」ことを「感謝するべき」だとアリスは言う。ここには、両者ともに夢うつつの状態から解放されたことが仄めかされている。しかし、アリスは同時に「一晩のこともそうであるように、ましてや生涯のことなんて、真実かどうか」分からないと言う。さらに、ビルはこう続ける。「夢もまたすべて、ただの夢では無い」と。すなわち、彼らは、夢うつつの不安定な状態からは解放されたかもしれないが、だからといって、現実を絶対視することも、夢をないがしろにすることもできない、つまるところ、我々には何も分かり得ない、という超越解を導き出すのだ。

 さらにアリスは現在、そして未来について語る。「大切なのは、いま私たちは起きている」、「そして、これからも目覚めていたい」と。そして続ける。「いま私たちにいちばん必要なことをすべきだわ」。ビルがそれは何だと問う。少しの間。「Fuck」


Final de la película "Eyes Wide Shut"

 理解に苦しむラストである。キューブリックが全キャリアを「Fuck」の一言で終えたというのは肩すかし的で、それはそれで劇的ではあるのだが、これをたんに「セックス」の意味に受け取るのは短絡的すぎる気もする。

 これを考えるために、オープニングを振り返ってみたい。なにしろ、オープニングとエンディングは往々にして重要な「何か」を共有するものなのだ。本作のオープニングは先述したとおり、劇伴のセカンド・ワルツを劇中のビルが止める、というエキセントリックなものである。これは、第三の壁をやんわりと突き崩し、観客(現実)と映画世界(夢)をないまぜにする。さて、エンディングにも同様の構造があるのではないかと思う。すなわち、「Fuck」という言葉は映画世界(夢)で発せられたものであると同時に、観客(現実)に向けられた言葉でもあるということだ。

 この円環構造は、観客に対して自己言及的な再確認を迫る。すなわち、「映画もまた夢=偽物だ」という身も蓋もない再確認だ。第1、第2に次ぐ第3の夢とは映画そのものだったのである。夢をテーマにする映画が、その表現媒体そのものの「夢」性にまで言及して終わる、というのはキューブリックらしい皮肉だ。夢に二時間半付き合った観客を冷ややかに見つめ、「いいかげん目覚めろ」と呟くキューブリックの姿が目に見えるようである。これはキューブリックが死に際して残した、いわば捨て台詞のようなものかもしれない。

 キューブリックは20世紀後半の映画の最大の担い手だ。彼はついに「2001年」を迎えることなく、20世紀とともに死んだが、1本の奇妙なフィルムを遺していった。それが、「アイズ・ワイド・シャット」である。我々観客に残されたキューブリックの遺言は「Fuck」だった。彼が「Fuck」に込めた意味を汲み尽くすことは到底できないが、そこには観客、社会、世界に対するシニカルな視線があったように思う。あるいは、むしろ何も意味などなかったのかもしれない。しかし、劇中でも示されているように、我々には何も分かり得ないのだし、つまるところ、映画は夢なのだ。気楽に行こう。